清水かつらの生涯

かつら小学生清水かつら、本名清水桂は、明治31年7月1日、深川に生まれています。小名木川の近くでした。先祖は、常陸土浦藩江戸詰の藩士と言われていますが、父は東京では初めてと言われる注射器のピストンを作る仕事をしていました。
 しかし、生活習慣は武士の時代と変っていなかったので、かつらは武士の気概を残した祖父母と母のもとで厳しい躾、毅然たる生活を教えられていました。武家の長男として武家の伝統を守って育てられていました。
 母が読んで聞かせた童話やおとぎばなし、母の歌った子守り歌は幼いかつらの胸の中に深く刻まれていました。童謡詩人としての芽は、幼い頃から育まれていたと言えるでしょう。
 かつらが4歳の時、工場経営にひたすら熱心な父に対し、武家の見栄や誇りを捨てきれなかった母は離縁され、寂しい幼年時代を過ごさねばなりませんでした。かつらは利口で気丈な所があり、めそめそしたりすることはありませんでした。離縁された母でもかつらにとっては大事な母でした。母を慕う気持ちが後に童謡と言う形で表現されました。

 かつらが小学6年生になって、第二の母を迎え、住まいも本郷区本郷元町(現文京区本郷2丁目)に移りました。その後、同春木町(同本郷3丁目)この辺りには理化学機械関係の町工場が集中していました。同時に、当時の本郷は森鴎外や夏目漱石、樋口一葉などが活躍した文化の中心地でも有りました。
 第二の母の実家は今の和光市新倉にあったので、かつらはしばしば白子や新倉を訪れていました。その時に見た白子や成増の風景、人々の暮らしぶりがかつらの心の中に深く刻み込まれたのではないでしょうか。

高等小学校を卒業したかつらは、これからは商業の時代だという父の薦めで京華商業学校に進学し、予科を修了しましたが、中退して青年会館英語学校に進学します。
 大正5年、神田駿河台下にあった書籍と文具の中西屋では少女雑誌を発刊することになり小学新報社を設立、かつらは鹿島鳴秋の招きで小学新報社に就職し、少女雑誌「少女号」の編集に携わりました。「少女号」は、「浜千鳥」や「金魚のひるね」を作詞した鹿島鳴秋が編集長で、ほかには後に剣豪作家となる山手樹一郎がいました。
 ここでは編集者も原稿を書いていましたので、かつらは子どもの頃に見た和光市新倉や白子、板橋区成増の田園風景、自分自身の心境などを題材にした童謡を次々に発表し、弘田龍太郎や草川信の作曲を得て、大正から昭和そして平成の時代にまで歌い継がれる名作を残しました。

 「靴が鳴る」は大正8年の作品ですが、かつらが本郷の小学校に通っていたころに行った遠足の思い出を歌に託しました。お友だちと手をつないで野原を歩く楽しさに、心も弾み靴も鳴るような気持ちでした。お友だちの手のぬくもりが忘れられませんでした。幼いころ母と手をつないで遊べなかったことが悔やまれます。「少女号」
 子供達がお使いや子守りなど、家の手伝いをするのが当たり前だった頃、白子の子供達も遊んでばかりではありませんでした。白子から成増の町へふすま(小麦の殻)を買いに行かされるのはきつい手伝いでした。白子と成増の間は急な坂で、うっそうとした林の中にきつねが出るといううわさもありました。叱られている子供達の幸せを願って、かつらは「叱られて」を作詞しました。
 見渡す限りの田んぼの彼方に夕日が沈む有様は山の向こうに幸せが待っているようでした。

 本郷の家では、6人の弟が誕生し、一番下の弟が生まれた時、かつらは24歳であったので、兄というよりは父親代わりの生活でした。かつらを中心に弟達が輪になって遊び学ぶ様は「雀の学校」ではなかったでしょうか。あのチイチイパッパの掛け声は父母(チチハハ)を求める子雀達の泣き声ではないでしょうか。
 大正時代は童謡の最盛期を言われるように、ふと耳にする童謡のほとんどはこの頃に作られています。鈴木三重吉が主宰した雑誌「赤い鳥」や野口雨情の「金の船」から数々の名作が生まれましたが、かつらの編集した「少女号」も大きな役割を果たしました。小学新報社では、その後「小学画報」や「幼女号」「少女文芸」などの雑誌を発行しています。
 かつらは生前、沢山の童謡に恵まれた「日本の子供は幸せだ」といっていたそうです。

           
かつら池のある家

 大正12年、父が亡くなり一家の責任がかつらにのしかかりました。追い討ちをかけるように関東大震災に見舞われ、かつらの家も全焼し家財のすべてを失ってしまいました。
 「愚痴を言えばきりがない。自分の悲しみは自分のものとして、やせ我慢と言われようと笑って頑張ろう」と自らに鞭打っていました。
 かつら一家は、本郷の家を捨て母の実家のある新倉村に逃げ延びるという重大な決意をしなければなりませんでした。若干25歳のかつらにとって苦難の時期でした。
 悲壮な覚悟で新倉村へ避難し、他人からも誉められ、自分もまたそれに力を得て活動しようとした矢先、7男が急病のため4歳で死亡。弟の死に直面し「どうにでもしろと天に向かって怒鳴りたい」気持ちだったそうです。
 昭和初年、かつら一家は新倉村から白子村へ移転しています。池や土橋、築山のある大きな家で、かつらが大変気に入っていた家でした。
 しかし、かつら自身はこの頃、ほとんどを東京で暮らし時々白子へ帰る生活でした。小学生の頃から俳句に興味を持っていたかつらは、岡野知十に師事し、俳諧の機関紙「郊外」や「半面」の編集にも携わっています。この頃は東武東上線も下板橋、上板橋、成増の順に停車していました
。               花岡学院

 又、当時神田区栄町で医院を開業していた花岡和雄が、練馬区土支田に花岡学院を開設していました。ここは長男忠男を主事とした全寮制の小学校で、和光市牛蒡の交差点の先にありました。現在の練馬区光が丘公園北西の一部分です。
 かつらは、ここで詩や作文を教え、童謡を歌ったり、時には運動会のパン食い競争に参加したりしていました。花岡学院でも、生徒のために童謡や学院の歌を作っています。その中から「おやすみの歌」は生徒が寝る前に歌ったそうですが、当時の生徒の中には今でもこの歌を歌っている方もいるようです。

 昭和15年頃、家主の都合により家が取り壊されることになったので、かつら一家は和光市白子2丁目に移転します。成増から白子へ抜ける旧川越街道は新田坂と呼ばれていますが、坂を下った辺りに造り酒屋の秀峰があり、その隣でした。それは丁度、成増(東京都板橋区)と白子(埼玉県和光市)の県境でした。
 かつらの生活ぶりは、子供の頃身についた礼儀正しさは終世変わらず、机に向かう時は何時も背筋を伸ばしていました。お酒を飲むときでもあぐらをかくようなことはなく正座したままでした。 お酒が大好きで、原稿を取りに来た出版社の人を待たせることもあり、原稿を書くのも忘れ、何時の間にか二人で飲んでいることもありました。詩人や文士の仲間で太刀打ち出来る人はいなかったそうです。
 ダンディでもあったから、普段着で歩くようなことはなく、着流しか背広をきちんと着て多少うつむき加減で成増駅に向かう姿が良く見られたといわれます。
 子供が好きで、周囲の者に気を使わせないよう気配りを絶やしませんでした。しかし、詩の構想を練る時には心は現実を離れ、宙を見詰めているようでした。
 かつらの童謡の特徴は、子供を良く観察し、子供の心に入って、ともに喜びともに悲しみ、のびのびとした気持ちを汲み取って子供たちの幸せを願うことでした。「子供の純真な素直な心を、そのままの姿で伸ばしたい」が信条でした。子供は誰の子でもない「日本の宝」という気持を持っていました。
 
 戦後、生まれた「みどりのそよ風」は白子と成増の間を流れる白子川を主題に作詞され、「夕やけこやけ」や「どこかで春が」の草川信の作曲で明るい希望に満ちた歌として知られています。 「みどりのそよ風」は、白子川に沿った田園風景を思い起こさせます。
 草川信は、暗い世相を明るくしようと「みどりのそよ風」を作曲しましたが、このレコードが発売される前に亡くなられたので遺作となってしまいました。 かつらは、昭和26年7月「酒が飲めなくなったら終りだ」とつぶやいて永眠しています。享年53。それは物心つく前の子供の、清らかな神様のようなすがたでした。
 7月11日には駒込の吉祥寺で音楽葬が行われ、弘田龍太郎や中山晋平の弔辞の後、ビクター児童合唱団と音羽ゆりかご会が「靴が鳴る」を斉唱、最後に四家文子が「叱られて」を高らかに歌い上げました。
 かつらのお墓は、文京区本駒込の吉祥寺にあります。ここには「かもめの水兵さん」の河村光陽や「花かげ」の大村主計、小出浩平のお墓もあります。